天神さんは、天満大自在天神や天満天神の略された呼び名で、天満宮や天神社、菅原神社などの菅原道真公(菅公)をご祭神として祀る神社のことです。その代表的な神社は、福岡の太宰府天満宮と京都の北野天満宮です。
ここでは、「神社検定テキスト 神社のいろは」第3章の㉕天神さんについて教えてくださいのページの内容を掘り下げて学習し、暗記しやすいようにスマホでも見やすい1ページにまとめてみました。
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天神さん
発祥、由緒
菅原道真公は平安時代初期の人で、学問の名家に生まれ、文章、詩歌に優れ、政治的には右大臣にまで上がりました。
延喜元(901)年にその才能を恐れた左大臣、藤原時平などによって無実の罪に問われ九州の太宰府に左降させられてしまいます。
その2年後、道真公は身の潔白を訴えながら59歳で亡くなります。その墓所の上に廟所を建てその霊を祀ったのが太宰府天満宮の始まりです。
道真公の祟り
その後、都では天変地異など不穏な出来事が起きるようになります。
そして藤原時平一族には次々と不幸が襲いました。
さらに宮中の清涼殿には雷が落ちて多数の死者が出てしまいました。
東国では平将門の乱が,西国では藤原純友の乱が発生しています。
こうして乱世の災いは、菅原道真の祟りであるという噂が広がっていきます。
宮廷ではこの祟りを恐れ、道真公の位階を右大臣に戻し,さらには太政大臣の位を贈るなどして怨霊の怒りを慰めることに努めました。
落雷により菅原道真の怨霊は京都の地主神社の火雷天神と結びつき雷神とされました。
御霊信仰
菅原道真公は「天満大自在天神」とも称されます。
この意味は「天に満ちて自在に威徳を示される神」ということと伝えられています。
平安時代中期には、少女の多治比文子に神託が降り、近江の神官の子の太郎丸にも同様の託宣が降りました。
これにより菅原道真の御神霊を祀ったのが北野天満宮で天神信仰の発祥の社となりました。
当時の人々は、非業の死を遂げた人の魂に対して畏れと敬意を込め「御霊」と呼びました。
御霊を鎮め、怒りによる混乱を回復しようとする「御霊信仰」です。
御霊会
2020年9月4日に全国天満宮の総本社とされる京都の北野天満宮では、550年ぶりに神仏習合の御霊会が行われました。
午前10時すぎ、神職と僧侶が三光門下で向き合い、並んで本殿に向かった。続いて森川宏映天台座主も本殿に入った。
本殿では宮司の祝詞、座主の祭文奏上が捧げられ、新型コロナウイルスの早期終息や国の安寧を祈願しました。
神仏習合による祭典は1868(明治元)年の神仏分離以来とされています。
北野御霊会
北野御霊会は、平安時代に始まった勅祭「北野祭」の一環として延暦寺の僧侶を迎えて催されてきました。
応仁の乱の後に途絶え550年ぶりに斎行されました。
学問の神、天神さん
室町時代には和歌や連歌、芸能の神となり北野天満宮では連歌の会が盛んに催されました。
天神さんへの信仰は、亡くなられた道真公の御霊の怒りを鎮めて秩序を回復しようとする信仰に始まり、生前のご事跡の顕彰・追慕する信仰として世に広まり、徐々にさまざまな神様として信仰されるようになりました。
天神さんは。当初は怒る神,天変の神と樅えられていましたが,次第にそのご神徳が変化していきます。
道真公の生前のご事蹟から朝廷の守護神として,和歌や連歌の神として,火雷天神という天候を司るご神威から農耕の神として,さらには無実の罪を晴らす神としても信じられ,さまざまな神として信仰されていきます。
江戸時代になると,学問の神様として寺子屋や藩校などの学校で祀られました。
また、各地で天神講が成立し、天神像が飾られて礼拝されるようになりました。
天神講は、菅原道真公の命日二月二十五日、月命日の二十五日に近所の子供たちが集まり学業成就のお祭りが行われました。
禅の思想とも結びつき、渡唐天神像が描かれるようにもなります。この図は学問の神として藩校や寺子屋などで配られました。
そのような経緯を経て天神さんは全国でお祀りされています。
学問の神様、受験の神様として名高い天神さん。
ご祭神は菅原道真公。
もとは、道真公の怒りを鎮めて秩序を回復しようとする信仰が始まりだった。
道真公の生前のご事蹟から、徐々にさまざまな神様として信仰されるようになった。
天神さんについての問題です
これまでの神社検定試験で実際に出題された過去の問題です。
神社検定試験過去問題集に記載されたものを選んでみました。
問題1
学問の神様、受験の神様として名高い天神さんです。
その代表的神
社は太宰府天満宮と北野天満宮ですが、ご祭神はどなたでしょうか。
- 菅原道真公
- 安倍晴明公
- 楠木正成公
- 藤原鎌足公
答えは1 菅原道真公
過去の試験での出題
- 令和24年6月3日 第1回神社検定 問19
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